埼玉県越谷市の真言宗摩尼山地蔵院|大悲霊廟・弥勒霊廟(納骨堂)

興教大師・覚鑁

興教大師・覚鑁(こうぎょうだいし・かくばん)

誕生と少年時代

興教大師・覚鑁は、今から約900年前、嘉保2年(1095)6月17日、肥前国藤津庄(現在の佐賀県鹿島市)にお生まれになりました。

父は総追補使(そうついぶし)伊佐平次兼元(いさのへいじかねもと)、母は橘氏の娘で、その三男として誕生され、幼名を弥千歳(みちとせ)と名付けられました。

早くから賢明で、8歳の時僧侶になる誓願を起こされ、10歳で父に死に別れた覚鑁は、ますます無常を感じたといわれます。

出家修行

13歳の夏上京、仁和寺の寛助大僧正のもとで出家した後、奈良で本格的な勉強を始められました。20歳の時、東大寺戒壇院で受戒、名を覚鑁(かくばん)と改められました。

のちに高野山に登って青蓮(しょうれん)、明寂(みょうじゃく)の両師について真言教学の奥義をきわめられ、坐禅観法(ざぜんかんぼう)を修されて約10年、当時衰微しつつあった高野山の復興を志されます。

覚鑁に対する声望は日一日と高まり、外護者がだんだん増加してきました。

そこで覚鑁は、ますます弘法大師(こうぼうだいし)の遺徳を宣揚することにつとめ、まず大治元年(1126)32歳の時、平為里(たいらのためさと)から法会供物料として紀州石手庄(きしゅういわでのしょう)を寄進され、そこに神宮寺を創建しました。

ついで長承元年(1132)には鳥羽上皇の庇護で「大伝法院(だいでんぼういん)」という道場と、住房としての「密厳院(みつごんいん)」を建立され、10月上皇の行幸をあおぎ、盛大な落慶供養をとりおこないました。その折り「大伝法会(だいでんぼうえ)」が、復興されました。

さらに長承3年(1134)3月21日には、宗祖弘法大師三百年御遠忌大法要が営まれ、同年大伝法院の座主、金剛峯寺の座主に選任されたのです。

真言の教えの中興

覚鑁はその後、勅命によって諸国の名師を訪ね、真言諸派の秘奥を探り、宗学を大成されました。一方、伽藍(がらん)の復興、高野山の運営の革新などをも断行されました。

また永年の京都東寺の支配から離れて、高野山の独立を達成され、文字通り真言宗団を中興されました。

根来山隠棲とご入寂

当時、我が国の仏教界はきわめて腐敗堕落しており、また東寺側の憤激、高野山内保守派の反発、嫉妬等が覚鑁の一身に集まりました。

そこで長承4年(1135)3月21日には両座主を辞任、密厳院に隠棲(いんせい)して無言三昧(むごんざんまい)の行に入られました。これは保延5年(1139)4月2日までの4年間、1446日に及ぶ行でした。

この間の心境が『密厳院発露懺悔文(みつごんいんほつろさんげのもん)』に著わされています。

これによると僧侶としての反省と、「我皆相代わってことごとく懺悔し奉る」という代受苦(だいじゅく)の精神こそが、覚鑁の一大誓願であり、修行の根幹であったことが理解されます。

保延5年(1139)11月5日、金剛峯寺と大伝法院の所領境界の争いから反対派の不満が爆発、凶刃を逃れて紀州根来山に隠退され、学問の研究と弟子の指導に専念されたのです。

ここで覚鑁の代表的著作『五輪九字明秘密釈(ごりんくじみょうひみつしゃく)』が著されました。これは当時流行していた他力往生の浄土思想に対して、密教の本質と、密教の阿弥陀観(あみだかん)とを表明し、加えるに五輪曼荼羅(ごりんまんだら)によって、即身に往生をとげることを論証されたものです。

さらに覚鑁は「凡夫(ぼんぷ)は差別的に考えるから、弥陀の念仏一門に固執するけれども、仏の世界は平等であり、曼荼羅の世界であるから、一門の法さえ成就すれば、おのずから普門の万徳が体得される」という、いわゆる弥陀即大日の理論を確立されるのです。その後、覚鑁を慕う学徒は全国より集まり、根来は学山として栄えました。
康治2年(1143)7月、風邪で病床につかれた覚鑁は、遂に12月12日円明寺にて、坐禅の姿をとり、衣の中で秘印を結び、口に真言を唱えながら、眠るが如く往生されたといわれています。49歳の若さでした。

元禄3年(1690)12月26日、ときの東山天皇から興教大師の諡号を賜わりました。覚鑁がご遷化されてから547年目のことです。

興教大師以前の高野山や東寺を中心とする流れに対して興教大師以降の根来山を中心とした流れを新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)といいます。

この新義真言宗はやがて大和長谷寺を中心とした豊山派と、京都の智積院(ちしゃくいん)を中心とした智山派とに分かれるのです。

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