埼玉県越谷市の真言宗摩尼山地蔵院|大悲霊廟・弥勒霊廟(納骨堂)

弘法大師

弘法大師(こうぼうだいし)

誕生と少年時代

弘法大師

弘法大師(こうぼうだいし)は、奈良朝末期、今から1200余年昔、光仁天皇の宝亀5年(774)6月15日、現在の四国香川県善通寺市でお生まれになりました。

父 佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母 玉依(たまより)の三男として生をうけ幼名を真魚(まお)と名付けられました。

早くから神童の誉れが高く、人呼んで「貴物(とうともの)」といわれました。

信心深い両親のもと、恵まれた家庭環境の中で成長した真魚は、やがて母方の伯父 阿刀大足(あとのおおたり)について詩や文章を学び、儒学の教育を受けられました。

求道の青年時代

15歳で伯父に連れられ上京し、18歳で大学に入学した真魚は、新しい環境の中で一心に勉強を続けられました。

しかし大学の勉強だけではもの足らず「人間にとって大切なものがあるはずだ」と悩み続け、折にふれ接した仏教の教えに「人間として大切なもの」がひそんでいる事に気づき、大学を中退して仏道に進む決心を固められたのです。

この頃の弘法大師の生活は必ずしも明らかではありませんが、一説には奈良岩渕寺(いわぶちでら)の勤操大徳(ごんそうだいとく)から「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」を授かり、22歳の時東大寺戒壇院(かいだんいん)で具足戒(ぐそくかい)を受け一人前の僧となり空海(くうかい)と名のったといわれています。

しかし空海のこうした生き方に、伯父をはじめ、多くの識者は反対して、忠孝に背くものとして厳しく非難しました。そこで、24歳で空海は自分に対する非難に答え、『三教指帰(さんごうしいき)』を著されました。

入唐求法

大和久米寺で『大日経(だいにちきょう)』を手にし、唐の国に留学する決心をされ、31歳で遣唐船四艘で延暦23年(804)7月6日、今の長崎県田浦(たのうら)を出港します。

翌日たちまち暴風雨に襲われて難破し、2艘は沈没あるいは航行不能に陥ってしまいます。空海と遣唐大使一行の乗り込んだ第一船は、34日間の漂流の後に幸いにも福州の付近に漂着しました。

しかし日ごろ、遣唐船の訪れない土地ゆえ上陸を許されず、大使の再三にわたる弁明の書簡も問題にされませんでした。遂に大使の依頼により空海がその書簡を代筆したところ、その筋道を尽くした文章と優れた筆蹟により疑いは一掃され、上陸が許されて遣唐使一行は首都長安に着くことができました。

翌年空海は留学生として、長安の西明寺に住し、6月青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果和尚(けいかおしょう)にめぐり合いました。
恵果和尚は初対面の空海を見るなり「我先より汝の来る事を知って、相待つ事久し。報命尽きなんとして付法に人なし・・・・・」と言い、無名の僧である空海に自分の正嫡の弟子として教えのすべてを授けました。

それからまもなく、12月15日に恵果和尚は遷化されたのです。翌年正月17日、和尚の葬送もすませ弟子を代表して碑文を撰した後、和尚の教えを守り33歳の秋無事帰朝されました。

帰国した空海は大同元年(806)10月、九州に到着し、苦心して集めてきた経論の整理をされ、帰朝上表(きちょうじょうひょう)を朝廷に奉進しました。

大同2(807)朝命によって、筑紫の観世音寺に住すると、大同4年(809)上京の勅宣(ちょくせん)をこうむって、京都高雄山寺(たかおさんじ)に入られました。

高雄山寺から高野山へ

嵯峨天皇の思し召しによって高雄山寺に入った空海は、ここで真言密教を流布し国家安泰の祈祷を修しました。そして、碩学(せきがく)空海のもとには多くの学僧が集まり、最澄(伝教大師)さえもが高雄山寺に上って、伝法灌頂(でんぼうかんじょう)を受けられたほどでした。

空海は歴代天皇の厚い帰依のもと、円満な人柄で真言宗の存在を広く仏教界に認めさせ、一宗の根本道場として東寺を賜わり、43歳の弘仁7年(816)には嵯峨天皇より賜わった高野山に入住する事になり、45歳の弘仁9年(818)から4年間余を、主として高野山にこもって修法や著述などをして過ごされました。

文化活動

空海は、当時世界第一の文化国であった唐で集められたさまざまな文献や、見聞した新知識により、社会のため人々のため優れた才能を次々と発揮されました。

中でも満濃池の修築工事では、人々の心を結集するため、岸で護摩をたいて工事の完成を祈るとともに、技術的にもアーチ型の堤防を築くなど、適切な指導をされたのです。

この他にも道をひらき、橋をかけ、井戸を掘り、温泉の効用を教え、漢方医学の知識を授け、石炭石油の利用を教えたと伝えられ、科学知識や生活技術を民利福祉の多方面に生かし、多面的に人々の生活向上を図られました。

また学術文化を大きく前進させた点でも日本史上最大の功労者で、その著書『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』を初め多くの著作は哲学者としても古今無比のものです。

『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』『文筆眼心抄(ぶんぴつがんしんしょう)』は日本最初の文章学概論であり、文芸評論でもありました。

さらに『篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)』という日本最初の辞典を作られ、『三教指帰(さんごうしいき)』『性霊集(しょうりょうしゅう)』などは詩・文ともに日本の漢文学史上最高峯の本格的な漢文として定評があります。

中国語や梵語など語学者としての造詣も深く、書道では三筆の一人として、美術においては弘仁期以後の仏像、仏画の製作に大きな影響を与え、建築においても同様でした。

さらに日本最初の庶民教育機関「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開き、教育の機会均等を実現されました。文化の基礎である文字については「いろは歌」も空海の作と伝えられています。

ご入定

承和元年(834)、数カ月後の入定を予期しつつ、空海は生涯の念願として、国家の安泰と民衆の繁栄のため、宮中に道場を開いて真言の秘法を修する事を奏上し、勅宣を得ました。

これは今日に至るまで「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」として連綿として続けられ、真言宗最高の法会(ほうえ)とされています。

最後の正月、御修法の導師をつとめられた空海は、弟子たちに遺言をのこし、承和2年(835)3月21日に62歳で高野山において入定(にゅうじょう)されました。

そして87年後の延喜21年(921)醍醐天皇から弘法大師の諡号(しごう)を賜わりました。

真言密教は、弘法大師の超人的な活躍によって「真言の教え」として日本の国に花開き、以来日本文化の底流として、また人々の心のよりどころとして、国民一人一人の心を豊かに育み培い続けてきたのです。

↑